ヤロウジダイ




 夜 郎 自 大






漢の時代。テン、ヤロウという少数民族の国があった。それぞれ現在の雲南省貴州省にあった小国である。小国と言ってもそれなりの国ではあったようだが、漢帝国の広大さには比べるべくもない。ところが、漢帝国というものをよく知らぬテン王は、漢の使者がやってきたとき、迂闊にも「漢という国と、我が国とでは、どちらの方が大きいのか」と尋ねてしまった。しかも、悪いことに、ヤロウ候も、全く同じような質問をしたという。



史記西南夷列伝にあるこの故事から、自分の力量をわきまえずに威張ることを「夜郎自大」と呼び習わすようになった。「テン自大」ではなく「夜郎自大」になった理由については、興膳宏さんが『平成漢字語往来』(日本経済新聞社)のなかで、こう推測している。



《「夜郎自大」になったのは、四字句としてのリズムのよさ、そしてなにより「夜郎」という語の字面の妙味だろう。「夜郎」は、「夜」の字が暗示するように、いかにも暗い辺鄙な土地のイメージがある。》



このように指摘しておいた上で、李白流罪の例をリンクさせていく手際は、大いに参考になるのだが、この推測が正しい/正しくないという以前に、その中華思想も少しは問題化すべきでなかったか。つまり、周辺国を「夷」とし「夜」という漢字を当ててしまう司馬遷の「夜郎自大」な帝国主義的かたり(語り=騙り)に回収されるのでなく、テン王やヤロウ候の反骨精神にも、きちんとフェアな脚光を当ててほしいと思うのだ。テンやヤロウをあえて片仮名で表記する所以である。



《自ら足れりとし、自らよしとするのは、夜郎自大というて、最も固陋、最も鄙吝な態度なのじゃ。》



上記は、海音寺潮五郎『南国回天記』の用例である。「自分だけは大丈夫」と思うているときが、おそらく最も危ない時だろう。テンであろうが、ヤロウであろうが、カンであろうが、夜郎自大夜郎自大である。ジャパンであろうが、チャイナであろうが、夜郎自大夜郎自大だ。井戸のカエルはもちろん、海のカメだって、宇宙に比べれば井底之蛙。これを読むアナタだって、これを書くワタクシだって、たぶん例外ではない。