ゴショウダイジ




 後 生 大 事






来世の安楽を最も大切にするという仏教の教え。転じて、物事を非常に大事にすること。
対義表現に「後生より今生が大事」という言い方もあるが、これは「後生が大事」のパロディ的表現であろう。
「後生」は、「後生畏るべし」のときは「コウセイ」と読むが、ここでは「ゴショウ」と読むので注意を要する。



八世蓮如「白骨」が語源のようだ。
《人間のはかなきことは、老少不定の境なれば、誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼みまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。》
老いも若きも来世の安寧のために念仏しなさいという教えである。この例が近世初頭に縮約されて「後生大事」という四字熟語になった。さらに近代では、また別の意に転ずる。



谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」の「壊れた道具を後生大事日本橋へ担ぎ込んで」などは「物事を大事にする」という意味である。円地文子「女坂」の「堅く言いきかされた母の言葉を後生大事に守って叱られることだけが無性に恐ろしい。」といった例も同様である。



李禹煥アクロポリスと石ころ」にも用例がある。
《駐車場に敷いてある石片を拾ってきて、後生大事に並べて、おおギリシアアクロポリスよと、うっとり夢幻を見ていたかと思うと、一瞬に気が抜けて恥ずかしくもありすべてがばかばかしい限りだった。》
子供の頃は、誰だって石ころに夢幻の輝きを感受したものだが、近代の散文において「後生大事」という四字熟語を使う語り手は、「何かを大切にする自分」を「どうしてそんなものを大切にするのか」という風に引いて見るところがあるようだ。難しく言い換えれば、「後生大事」という四字熟語を選び取った時点で、陶酔する自己を相対化するという批評的な視点を内在化させる、ということになるだろうか。



高浜虚子には、こんな俳句もある。



   雑炊や後生大事といふことを   高浜虚子



雑炊は冬の季語。かつては薬喰であったことも想起したい。雑炊が臓腑に沁み入る感じがよく出ていよう。