シュウシュボウカン




 袖 手 旁 観






そばにいるのに、懐手をして何もせず、成り行きに任せて、ただ見ていること。
「旁観」は「傍観」とも書く。「拱手傍観」「座食逸飽」「酔生夢死」「走尸行肉」「傍観縮手」という言い方もある。



頼山陽「一條天皇論」に「袖手傍観し、敢へて一言して之を匡救する無し。」とあるのが、最初の出典らしい。淵源を辿れば韓愈の「祭柳子厚文」に遡るという説もあるが、「袖手旁観」という四字熟語の形は頼山陽が初めであるようだ。



泉鏡花「鐘声夜半録」に用例がある。
《傍らに人あるを憚るべし。いかなる場合にても、人の岸に臨むを見て袖手傍観するものあらむや。》
思わず「ヤジウマ」とルビを振りたくなる。



芥川龍之介「路上」には次のような用例がある。
《その雨の中を歩いて行く俊助の心は沈んでいた。彼は藤沢の声を思い出した。大井の顔も思い出した。それからまた彼等が代表する世間なるものも思い出した。彼の眼に映じた一般世間は、実行に終始するのが特色だった。あるいは実行するのに先立って、信じてかかるのが特色だった。が、彼は持って生れた性格と今日まで受けた教育とに煩わされて、とうの昔に大切な、信ずると云う機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いては来なかった。従って彼は世間に伍して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむ事が出来なかった。袖手をして傍観す――それ以上に出る事が出来なかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味うべく余儀なくされた。》
羅生門」の下人は行動する勇気を得たが、「路上」の俊助は行動できない傍観者である。



福田英子「妾の半生涯」にも用例がある。
《その頃妾の召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断りて男の姿を学び、白金巾の兵児帯太く巻きつけて、一見田舎の百姓息子の如く扮装ちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山の弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞みがたく、先ずその旨を承諾して、さて何故にかかる変性男子の真似をなすにやと詰りたるに、貴女は男の如き気性なりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換えたりという。さては世間の妾を視ること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌がんとする驕慢疎野の女よと指弾きせらるることの面目なさよ。有体にいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些かなりとも世に尽さん考えなりしに、図らずも殺風景の事件に与したればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関いしは事国家の休戚に関し、女子たりとも袖手傍観すべきに非ず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨め励まし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外ならず、かの男子と共に力を争い、将た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処までも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔け相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図らずもかかる錯誤を招きたるは、妾の甚だ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々その非を諭し、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目艶麗の一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁して美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐ろに微笑の浮ぶを覚えつ。》
引用が長くなったが、「東洋のジャンヌダルク」とも呼ばれた婦人運動のさきがけ・福田英子の文章は、トランスジェンダーの問題を考える向きにも興味深い。「女子たりとも袖手傍観すべきに非ず」の箇所は否定文だが、図らずも〈女子=袖手傍観〉という当時の一般的な見方も炙り出しているだろう。