ゴカノアモウ




 呉 下 阿 蒙






自分の名前が四字熟語になつたら、どんなだらう?
しかも「無学な者」という意味で。



「阿蒙」は「蒙さん」「蒙ちゃん」という意味で、人名だ。「阿〜」という言い方は、魯迅の『阿Q正伝』でおなじみだろう。「呉下阿蒙」とは、直訳すれば、呉の国の阿蒙さんという意味である。



故事から来た四字熟語である。『三国志呂蒙伝に詳しい。
中国三国時代。呉の魯粛呂蒙と久しぶりに会ったら、昔の印象と打って変わって深い学識を備えていた。驚いた魯粛呂蒙を「呉にいたころの蒙さんにあらず!」と感嘆した。そのときに吐いた呂蒙の台詞も心憎い。「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と言ったのだ。「三日も会わなければ見違えているさ。」
(粛拊蒙背曰、「吾謂大弟但有武略耳。至於今者、學識英博、非復呉下阿蒙。」蒙曰「士別三日、即更刮目相待。」)



呂蒙に何があったのか。もともと呂蒙黄祖討伐を始め、多くの戦いで大将として手柄を立てた武勇一辺倒の人であった。教養は全くといってよいほど無かったのである。しかし、「戦争で忙しいから、読書なんてしている暇はない」と言い訳する呂蒙に、主君である孫権から「別に博士になれというのではない。過去のことを知ってほしいのだ。お前は呑み込みが早いから、学問をするときっと役立つ」と、教養の大切さを諭された。そこからが立派なところだが、呂蒙は学者以上に勉強し、上記の逸話となるわけだ。



河東碧梧桐は、若い頃、自信作の『渡守』を正岡子規の書簡によって完膚無きまでに酷評された経験を有つ。そこでは「幸田露伴に見せる前でよかったね」みたいなことを言われた挙げ句、次のように言われてしまう。
《僕曾て貴著一葉桐を讀むこれ貴兄が二三年前の作なり故に其拙劣なるを怪まず。今や貴兄昔日の阿蒙に非るなり僕の刮目して待つ事亦尋常少年を待つよりも甚だし。而して今貴著渡守を讀む讀み畢つて其價値を考ふるに一葉桐に勝る事たゞに一歩なるのみ。》
筆法鋭く、踏んだり蹴ったりの、やりたい放題。もっとも酷評の合間々々には、極めて微弱ではありながら、気づける人には気づけるフォローも通電していて、その一つに「阿蒙」の語もあるののではあったが、しかし、ここでは結局「阿蒙」は「阿蒙」のままだと言われているわけだし、前進わずかに一歩のみなのであるから、碧梧桐にとって、かなりの痛棒だったことは想像に難くない。



中島敦「悟浄歎異−沙門悟浄の手記」にも用例が見える。
《まだまだ、俺は悟空からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下の旧阿蒙ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰を戒めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?》
孫悟空に比して、何ら進歩せぬ自己への苛立ちが「呉下の旧阿蒙」の語には込められている。



太宰治「花吹雪」にも用例がある。
《そもそも老婆心の忠告とは古来、その心裡の卑猥陋醜なる者の最後に試みる牽制の武器にして、かの宇治川先陣、佐々木の囁きに徴してもその間の事情明々白々なり、いかにも汝は卑怯未練の老婆なり、殊にもわが親愛なる学生諸君を不良とは何事、義憤制すべからず、いまこそ決然立つべき時なり、たとい一日たりとも我は既に武術の心得ある男子なり、呉下阿蒙には非ざるなり、撃つべし、かれいかに質屋の猛犬を蹴殺したる大剛と雖も、南無八幡! と念じて撃たば、まさに瓦鶏にも等しかるべし、やれ! と咄嗟のうちに覚悟を極め申候て、待て! と叫喚に及びたる次第に御座候。》
この異常なテンションのなかで繰り出される文語や四字熟語が面白い。もともとは勇猛の士が学識を身につけたという故事であったはずなのに、ここでは反対に一日だけの武術の心得によって「呉下阿蒙に非ず」と言っているから滑稽なのだ。



ともあれ「旧阿蒙」のままでは嫌だ、「呉下阿蒙に非ず」と言われるようになりたいという気持ちを強く持つことが大切であろう。