カンリトウエキ




 冠 履 倒 易






人の地位や物事の価値があべこべで、秩序が乱れていること。出典は『後漢書』楊賜伝の「冠履倒易、陵谷代處」。「冠履雑処」「冠履転倒」「冠履倒置」「本末顛倒」とも言う。三字熟語なら「下克上」か。



「冠履」という言い方はよく使う。たとえば「すぐれた人と愚かな人は一緒にするな」という「冠履は同じく蔵めず」(『説苑』)や、「瑣事にとらわれて物事の本質から外れてしまう」という「冠履を貴んで頭足を忘る」(『淮南子』)などがその例だ。「冠」は「かんむり」、「履」「くつ」を指していて、上下の隔たりの大きいものを表すことが多い。樋口一葉「うもれ木」には「冠履の相違雲泥の差別」と出てくる。



他方、「倒易」の「倒」は「逆さま」の意。「易」は「貿易」の「易」にニュアンスが近く、「入れ替わる」という意である。要するに、冠を足にはき、靴を頭に載せるといった珍妙な図柄をイメージすればよい。



「冠履倒易」の用例は見つけられなかったので、代わりに夏目漱石『それから』から「冠履顛倒」の例を引く。
《其時彼は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓ゑたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと名けてゐた。アンニユイに罹ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何の為と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外ならなかつたからである。》



芥川龍之介「あの頃の自分の事」も「冠履顛倒」を使っている。
《かう考へて来ると、純文学科のレエゾン・デエトルは、まあ精々便宜的位な所だね。が、いくら便宜でも、有害の方が多くつちや、勿論ないのに劣つてゐると云ふもんだ。劣つてゐる以上は、廃止した方が正当だよ。――何、あれは中学の教師を養成する為に必要だ? 僕は皮肉を云つてゐるんぢやない。これでも大真面目な議論なんだ。中学の教師を養成するんなら、ちやんと高等師範と云ふものがある。高等師範を廃止しろなんと云ふのは、それこそ冠履顛倒だ。その理窟で行つても廃止さるべきものは大学の純文学科の方で、高等師範は一日も早くあれを合併してしまふが好い。》
これは面白い。今で言うところの文学部不要論だ。要するに、教育学部に統合しろ、と。
しかし、芥川の時代からそのような議論がなされていたにもかかわらず、いまだに文学部は残っている。皮肉なものだ。そろそろ本当になくなるかもしれないし、いつまでも延命し続けるかもしれないが、文学部を廃止しろという声がなくなることだけはないだろう。
ともあれ、こういう種類の無駄を許容できるかどうかで、社会が「冠履倒易」なのか否かが分かるかもしれないと私などは愚考してしまう。