エシャジョウリ




 会 者 定 離






生あるものは必ず死す。出会いがあれば必ず別れも来る、という仏教の教え。出典は『遺教経』の「世皆無常会必有離」である。



平家物語』の維盛入水の場面に「生者必滅、会者定離はうき世の習ひにて候也」とある。だから類義語は「生者必滅」あるいは「盛者必衰」であることが知れよう。他には「愛別離苦」という四字熟語もある。



「浦島太郎」のなかに出てくる四字熟語としても、記憶に残したいものだ。
次に示すのは、福永武彦訳の『お伽草紙』からの引用である。



《「今は何をお隠しいたしましょう。私はこの龍宮城の亀でございますが、“えしまが磯”で、あなたさまに危い命を助けていただきました。その御恩に報いようと、こうして夫婦になったのでございます。これはどうぞ私の形見と思ってお持ち下さい」
と言って、左の脇から美しい箱を一つ取り出し、
「ただ決してこの箱をお開けになってはなりませぬ」
と固く断わって、浦島太郎に手渡した。 
会者定離のたとえのとおり、会う者は必ず別れるとは知りながらも、女房は悲しさに胸もつぶれる心地で、
   日数へてかさねし夜半の旅衣たち別れつついつかきて見ん 
   (この長い年月を仲睦まじく暮らしましたが、別れていつまた逢えるでしょう)
と歌をよめば、浦島もそれに答えて、 
   別れ行くうはの空なるから衣ちぎり深くは又もきて見ん 
   (心もよそに別れて行く私だが、契が深ければまた来て逢えるだらう)
と一首を報いた。》



「浦島太郎」の要約は、実は『平家物語』同様、「会者定離」と言へなくもない。






梁石日『夜を賭けて』の用例は、暗に『平家物語』を踏まえている。
《生きることはすなわち死ぬことである。そのことを知っている者だけがアパッチ部落に残った。「生者必滅、会者定離」の果てしない相剋の果てに何があるのか、その答えを知っている者は誰もいない。》
アパッチ族とは、大阪造兵廠跡(現在の大阪城公園)の対岸に集落を構えた在日朝鮮人たちのことである。彼らはそこから鉄屑を掘り出して生活の糧にしていたのである。そのアパッチ族と警察との戦いがテーマの一篇だからこそ「会者定離」の四字熟語に迫力がある。現代の『平家物語』と呼ぶのは、奇矯すぎようか。



対して「浦島太郎」と通底するのが、倉田百三出家とその弟子』の用例だ。
《せんねんまんねんいきても、一たびは老いたるも、若きも、しなでかなはぬものにて候。会者定離は人間の習ひなれば、たれになごりか惜しき……》
これは親鸞へ向けられた台詞だが、親鸞聖人には次のような歌がある。



   会者定離ありとはかねてききしかど昨日今日とは思はざりけり



下の句の「昨日今日」が、我々をハッとさせてくれる。