トクイマンメン




 得 意 満 面






事が思いどおりになって、満足した気持ちが顔いっぱいにあふれるさま。
「喜色満面」ともいう。



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太宰治お伽草紙』に用例がある。



《狸は爺さんに捕へられ、もう少しのところで狸汁にされるところであつたが、あの兎の少女にひとめまた逢ひたくて、大いにあがいて、やつと逃れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言ひながら、うろうろ兎を捜し歩き、やつと見つけて、
「よろこんでくれ! おれは命拾ひをしたぞ。爺さんの留守をねらつて、あの婆さんを、えい、とばかりにやつつけて逃げて来た。おれは運の強い男さ。」と得意満面、このたびの大厄難突破の次第を、唾を飛ばし散らしながら物語る。
 兎はぴよんと飛びしりぞいて唾を避け、ふん、といつたやうな顔つきで話を聞き、
「何も私が、よろこぶわけは無いぢやないの。きたないわよ、そんなに唾を飛ばして。それに、あの爺さん婆さんは、私のお友達よ。知らなかつたの?」》



一方が得意で、他方の異性が冷めているというのは、劇的な会話のいわば常道だが、太宰的なエクリチュールで忘れてならないのは、地の文の役割だろう。「得意満面」という四字熟語を使用し、さらには「大厄難」などという大袈裟な言葉を使って、「唾を飛ばし散ら」す様子を切り取る語り手の手際があるので、いっそう劇化され、同時に滑稽化されるという仕掛けである。なお、太宰治の場合は、他のテクストにも「得意満面」という四字熟語が頻出する。



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三浦哲郎「十五歳の周囲」にも用例が見える。



《その飛行機の搭乗員はきわめて若い青年であったと思われます。もしかしたら、初陣。彼は最初の攻撃で爆弾をうまく目標物に命中させ、われながら見事、飛行服の胸をわくわくさせて、夢中で街の上空まで飛んで来て、さてゆっくり一周、母艦へ帰ったら、早速故国の母と女友達に今日の手柄を書き送ろう、それから仲間に一ぱいおごらせて、チーズを山ほど食べよう、など、得意満面でランランランと歌いながら胸のはずみに合わせて何気なく発射ボタンを押した。――そんなことにちがいありません。ちょうど私たちが、なにか心楽しむことがあって散歩に出た時、地平線の上に、いろいろな空想の虹を描きながら、なんの気なしに道の小石をけとばすように。》



想像の暴走。あるいは、加害者と被害者の非対称性。そういったことを思わせる文章である。



実際は飛行機の搭乗員が若い青年であったかどうかは分からないし、発射ボタンを押すときの心情がそこまで弾んでいたかどうかも不確かだ。そういった意味で、これは想像の暴走であると言える。



被害者の苦しみに比して、加害者が脳天気でありすぎるといった非対称性は、戦争のテクノロジーが高度化して、命がけという精神的なものから遊戯的なものへと変化した第二次世界大戦以降、枚挙に暇がない。しかし、いつかの『毎日新聞』によれば、最近のアメリカ合衆国では敵国に赴くことなく、ラジコン操作のように、ゲーム感覚で空爆をやっていると聞く。



そういう意味では想像の暴走が、暴走でありながら事実と合致してしまったということもできるわけで、恐ろしい時代になってしまったというよりほかない。