チュウトハンパ




 中 途 半 端






どっちつかずで片づかないこと、不完全で未完成なこと、最後まで徹底しないこと。



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二葉亭四迷「其面影」に用例がある。



《「君は能く僕の事を中途半端だといって攻撃しましたな」》



「平凡」という標題の作者でもあった二葉亭四迷という人ほど「中途半端」という四字熟語が似合う作家も他にはいないだろう。



まず人生が中途半端だった。作家としても、実業家としても、中途半端だった。登場人物たちにも、中途半端なものが多い。さらに、結末なども中途半端と来るから救いがないが、そこで「文学というものは中途半端を肯定するものだ」式の言葉で、要約してしまってよいものかどうか。そのようなことを考えながら、改めてこの引用に向かい合うと、響きに別の重層が得られるだろう。



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夏目漱石『道草』に用例がある。



《彼は金持ちになるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。》



漱石の場合、『道草』という標題も示唆的なのだが、片付かない中途半端な状態のほうがよいという諦め(それはしばしばユーモアであり、逆説的なメッセージでもある)を同時に発しているケースがままあるようにも見受けられる。



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梶井基次郎「泥濘」にも用例はある。



《なにかをやりはじめてもその途中で極って自分はぼんやりしてしまった。気がついてやりかけの事に手は帰っても、一度ぼんやりしたところを覗いて来た自分の気持は、もうそれに対して妙に空ぞらしくなってしまっているのだった。何をやりはじめてもそういうふうに中途半端中途半端が続くようになって来た。またそれが重なってくるにつれてひとりでに生活の大勢が極ったように中途半端を並べた。そんなふうで、自分は動き出すことの禁ぜられた沼のように淀んだところをどうしても出切ってしまうことができなかった。》



長年、梶井基次郎には漱石と似たようなユーモアが作動していると感じていた私だが、その共通するところは「中途半端」という四字熟語によって解くことができるかもしれないと思いはじめている。梶井にせよ、漱石にせよ、登場人物たちに「中途半端はいけない」というオブセッションが働いているからである。



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大佛次郎『帰郷』にも用例がある。



《「もっと、日本人はおっこちなければ駄目だ。僕はそう見ている。無慈悲でも突き落す必要があるんだ。中途半端なところへ、ぶらさがってこれで済むのだ助かるのだと見ている。その料簡を叩き毀さない限り、復活はないさ。ほっかぶりして通ろうと思っているんだろう。卑屈で、軽薄で、民族の誇りも自負もない。こういう奴は、どん詰りまで突き落して、苦しい目を見せなければ駄目なんだ。苦しみの底を嘗めたら、どんな人間でも目をあくよ。歯をむいて怒り出すよ。そうだ。怒りだ。こいつだけが、日本人を救うんじゃないかね。見たまえ、誰も怒りを感じている人間なんていやしない。皆、へらへら笑っている。なさけない哉さ。あの戦争に今も心から怒っている人間だけでも、幾たりいるかね。もう済んだ。お目出度う御座いますでへらへらしている。嗚呼、嗚呼だ。人間が他人の運命でも自分のことのように怒るようにならんけれア駄目なんだ。断じて駄目なんだ。宙ぶらりんじゃね。いつまでも宙ぶらりんじゃアね。」》



思わず引用が長くなったが、画家・小野崎公平の熱弁には説得力がある。それは一つには、坂口安吾堕落論」の影響が色濃いためである。そして、そこに怒りのエネルギーが加わっていることもあるだろう。この場合の「中途半端」は「いつまでも宙ぶらりん」な日本人気質に向けられている評語だが、敗戦直後であれ、今日であれ、状況は豪も動いていないように見える。中途半端なまま、復活してしまった。



画家でなくとも、徹底がなく、あまりに優しすぎて不甲斐ない日本人に対して、怒号を飛ばしたくなることがあるだろう。



が、それでもなお、それを愛おしく思う人もあるだろう。「だから駄目なのだ」と言われると分かっていながら、それでもなお、それを愛おしく思う人があるだろう。