コウジンバンジョウ




 黄 塵 万 丈






黄砂が風に乗って空高く舞い上がっているさま。あるいは、砂煙が空高く舞い上がっている戦場の様子。*1



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志賀重昂『日本風景論』に用例がある。長くなるが、引用する。
支那の如き、北方は一面第四紀地層に係り、平々たる水成岩延縁すること無慮四万二千方里(日本全面積の一倍七強)、いはゆる「黄土」と称し、黄河の濁江汪々としてその間に曲折し、注ぎて黄海に入り、上には黄雲惨憺とし、満眸皆な黄色、一山一峰のこの際に聳起するなく、風物の単一同様なる真個に行客を惓殺せしむと、いはんやもしそれ北風直ちに蒙古より到るや、千里これを遮断するものなく、いはゆる「黄風北来雲気悪」[黄風北より来たり雲気悪ろし。](李夢陽)、黄塵紛々、戸障に入り、木葉を蔽ひ、田園に累り、泉水また黄濁、殺風景の極を尽くす、これ支那文人の動もすれば「黄塵万丈」の語をなす所因、敢て日本の如き火山岩国の浄山澄水間に使用すべからざる語、けだし「野曠天低日欲西。北風吹雪雁行低。黄河古道行人少。一片寒沙没馬蹄」[野曠く天低くして日西せんと欲す。北風雪を吹き雁の行くこと低し。黄河古道行人少なく、一片の寒沙馬蹄を没す。](屠隆)、これ実に支那北方の景象を描きて余蘊なきもの、その南方に到れば、十中の七、八は、太古紀、中古紀の岩石に成り、森林は幾千年来濫伐し去りて巨木高樹の幽邃少く(四川省揚子江の上流を除きては)、僅に蕷薯一様の画を描きて仮形的に山水を眼前に現はし、いはゆる「臥遊」して以て聊か自ら慰むるに過ぎず、固より火山岩国たる日本の景象到る処警抜秀俊なるに似ず。》
「「日本風景論」が中国についてどういう態度を示しているかを調べてみると、「黄塵万丈」の黄土に対する非難と、メタンガスのわく洞庭湖・西湖にわが国の火口湖を対比している個所が目につく。」との言は、内村鑑三の良識ある書評を踏まえた三田博雄『山の思想史』(岩波新書)による正しい指摘である。日本を美化するために中国を引き合いに出している志賀の行き過ぎた態度、不公平な見方については批判されなければならないと私も同意するところである。



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「長江流域の日本人」(『中央新聞』拓殖欄 明治45年4月17日〜23日)の例に止目したい。*2
《序でに長沙の事を少しく話そう、長沙は湖南の都で人口五十万と称している城郭は長方形で十五哩あるという、此内にある市街は清国第一の清潔な町で街の幅は二三間しかないが二階造りが少ないから風通はよし光線は通るし共に道路は石を敷きつめてあるから我東京のように雨が降れば泥濘、風が吹けば黄塵万丈というようなことはない》



中国=黄塵万丈という印象がただちに結ばれるのは間違っていることがこうした記述から明らかになる。日本を美化するための言説は、こうした実地に調べた言説によって相対化される必要があるのではないか?



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正岡子規「松羅玉液」にも用例がある。
《向嶋の花 いかにかあらん。紅雲十里黄塵万丈の光景眼の前にちらちらと見えて土手沈む三寸三分》



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市島春城「読書八境」にも用例がある。
《古語に居は気を移すとあるが、居所に依つて気分の異なるは事実である。読書も境に依つて其味が異なるのは主として気分が違ふからで、白昼多忙の際に読むのと、深夜人定まる後に読むのとに相違があり、黄塵萬丈の間に読むのと、林泉幽邃の地に読むのとではおのづから異なる味がある。忙中に読んで何等感興を覚えないものを間中に読んで感興を覚えることがあり、得意の時に読んで快とするものを失意の時読んで不快に感ずることもある。人の気分は其の境遇で異なるのみならず、四季朝夕其候其時を異にすれば亦同じきを得ない。随つて読書の味も亦異ならざるを得ないのである。》
「林泉幽邃」と対比されて「黄塵万丈」が出てくる例だが、このような対比は「幽邃少なく」と言いつつ「黄塵万丈」と主張する『日本風景論』と同じ型と言える。



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太宰治「二十世紀旗手」にも用例がある。
《そうして、それから、――私たちは諦めなかった。帝国ホテルの黄色い真昼、卓をへだてて立ちあがり、濁りなき眼で、つくづく相手の瞳を見合った。強くなれ、なれ。烈風、衣服はおろか、骨も千切れよ、と私たち二人の身のまわりを吹き荒ぶ思い、見ゆるは、おたがいの青いマスク、ほかは万丈の黄塵に呑まれて一物もなし。この暴風に抗して、よろめきよろめき、卓を押しのけ、手を握り、腕を掴み、胴を抱いた。抱き合った。二十世紀の旗手どのは、まず、行為をさきにする。健全の思念は、そのあとから、ぞろぞろついて来て呉れる。尼になるお光よりは、お染を、お七を、お舟を愛する。まず、試みよ。声の大なる言葉のほうが、「真理」に化す。ばか、と言われた時には、その二倍、三倍の大声で、ばか、と言い返せよ。論より証拠、私たちの結婚を妨げる何物もなかった。》
旗手ならではの昂揚した高すぎる言葉の調子、風、そしてその中での「黄」と「青」という色の対照が印象的な文章である。



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阿川弘之「雲の墓標」にも用例がある。
《此処の気候はたいへん不順で、黄塵万丈のものすごい風が吹いて、筑波山は姿を消し、霞ヶ浦の水面も黄色くけぶることが屢々である。春の来る前兆だそうだ。「武蔵野の草葉もろむきかもかくも」というはげしい気象で、関西の者にはなじみにくい。きょうはしかし、大分あたたかになった。風の中で予科練たちが元気にフープをやっている。夜は毎晩、温習の中休みになると、かれらの犬の遠吠えのような、黄色い号令演習の声が聞こえて来る。》
「号令演習の声」を「黄色」にしたのは「黄塵」に合わせた意図的なものか。ちなみに「黄塵」は春の季語でもあるが、この記事には「三月一日」という日付が与えられている。



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水原秋桜子編『俳句小歳時記』(大泉書店 昭和58年)の「黄塵」には次の記述がある。
《戦前、満州に大勢の日本人がいたころ、彼の地で生まれた季題。満州は、春ともなれば蒙古や北支の黄土地帯で吹き上げられた大量の砂塵が空を覆い、いわゆる「黄塵万丈」の現象を呈する。天地は輝きを失い、屋根や地に砂塵が積もったりする。それを「黄沙」といい、その現象を「つちふる」ともいった。のち、この語が日本内地に入ってきて、赤土地帯で春の季節風の強く吹く地方では、この季題を用いるようになった。北九州地方では風向きにより、大陸の黄沙が降ることがあるという。》
補えば「春塵」「春埃」「霾風」「霾天」「蒙古風」「胡砂来る」などを今日、季語として用いる。『日本風景論』のごとく中国や朝鮮の気象や風景を日本を引き立てるために使うこともあれば、短詩である俳句の季語としてしまうこともあるということが「黄塵万丈」という四字熟語の調査によって明らかになる。



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谷譲次「踊る地平線」の用例を最後に挙げて締め括ろう。
《この山子売りはハルビン街上風景の一主要人物である。黄塵万丈の風に乗って、泣くようなその売り声が町の角々から漂ってくるとき、人は「哈爾浜らしさ」の核心に触れる。》
こうした文章に接する度に、私は旧植民地の文学の研究の必要性を改めて痛感する。





*1:「紅塵万丈」は音は同じなので類縁性はあるし、非常に混同されやすいこともまた事実であるが、ここでは別語と考えておく。http://d.hatena.ne.jp/Cixous/edit?date=20091117も参照

*2:引用は神戸大学附属図書館のデータによる。