セイシンセイイ




 誠 心 誠 意






偽りのない純粋な真心。「誠意誠心」ともいう。



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福沢諭吉『福翁百話』に「誠意誠心」の用例がある。
《天下の事を憂ひて誠意誠心一点の私なし》
ただの本心ではなく、私利私欲がないことが「誠心」であり「誠意」なのである。



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「誠心誠意」には尽くすというニュアンスもあるようだ。



柴田錬三郎『怪談累ヶ淵』に用例の一つがある。
《お岩は、誠心誠意良人につくして来たつもりであった。》
有名なお岩さんの話。尽くす妻の誠心誠意は、鈍感な夫によっていとも簡単に踏みにじられる。



辻邦生西行花伝』にもう一つの用例がある。
《教長は誠心誠意新院の手となり足となって働こうとしていた。》
私心がないことが「誠心」であり「誠意」であるとすれば、自分の頭(判断、理性)を空っぽにして、つまりは「手となり足となって」働くことになることを意味する。



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大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部「救い主」が殴られるまで』にも用例がある。
《――……経験が大切だと、いや大切かどうかでさえなくて、経験するほかないことがある、と思っているんでしょう。それこそ誠心誠意受けとめてやってみて、どんな成果もえられなくても、それを経験したことには意味があったと、そういうことがあると思っているんでしょう。それよりほかに意味のあることはない、とすら考えているかも知れないわ。あの人もヒカリさんと永年一緒に生きてくることで、それほどの知恵はかちえているでしょうからね。》*1
経験が大切だと説く人は案外、多い。ここまで来ると、一種のステレオタイプだと皮肉ってみたくもなる。経験の重要性を説く人は、しばしば理性を信じていないのではないか? 経験はむろん大切なものだが、その大切さを強調しすぎると、人は考えることをしなくなるのではないか? 経験の豊富なヴェテラン、そして経験の少ない若い人は特に、自己を無にし空にする「誠心誠意」と同時進行して、「考えること」をしなければならぬのではないか? ……と大江風に言ってみる。


*1:原文は「誠心誠意」の四字に傍点が付けてある。