キショウテンケツ




 起 承 転 結






文章の構成。物事の順序。
元は漢詩の構成法で、まず詩意を起こし、次にそれを受け発展させて、さらには場面や視点を転じ趣を変えて、最後に全体をまとめ締めくくる。中国語では原典に忠実に「起承転合」という。



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『詩法源流』が原典であるとされる。
《余復た作詩の成法を問ふに、起承転合の四字有り。絶句を以て是を言へば、第一句は是れ起、第二句は是れ承、第三句は是れ転、第四句は是れ合。》



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夏目漱石「思い出す事など」に用例がある。
《仏語で形容すれば絶えず火宅の苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙があるような心持がして、隈も残さず心を引き包んで、詩と句の中に放り込む事ができない。》



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寺田寅彦「備忘録」にも用例がある。



《あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。
 実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。》



私はそこにソナタを聴かないし悲愴交響曲は思い出さない。が、線香花火は、なるほど過程の美なのかもしれぬとは思う。



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寺田寅彦映画芸術」にも用例が見える。



《映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律にたとえらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との対位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにそのとおりで前句と付け句とは心像の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。
 このようにして連句の運動が進行するありさまはある度までたとえばソナタのごとき楽曲の構造に類する。この比較についてはかつて雑誌「渋柿」誌上で細論したからここには略するが、それと全く同じことが映画の律動的編成についても言われるのである。そうして序破急と言いあるいは起承転結と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型を見いだすのである。》



こちらはかなり同意できる。というのは、田中眞澄『小津安二郎と戦争』(みすず書房)に「連句モンタージュ」という論があるのを思い合わせるからである。ちなみに私はこの問題に太宰治の『富嶽百景』のいわゆる単一表現の問題をリンクさせたいと考えているが、これはまた別の場所に書かなければなるまい。
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藤本義一『にっぽん口八丁』にも用例がある。
《話は、起承転結の転を乗り越えた様子だった。》



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高見順「起承転々」という題の小説があることも最後に附け加えておこう。見事な創作四字熟語と言える。