ハイトクボツリン




 悖 徳 没 倫






道徳に背き、人としての道に外れること。「徳に悖り倫を没す」とも読む。
「背徳不倫」「背徳没倫」「悖徳乱倫」「非義非道」「不義非道」「不義不正」「不義不貞」「不義不徳」「不正不義」「不忠不義」「不貞不義」など、類義語は枚挙に暇がない。



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夏目漱石吾輩は猫である』を見る。
「明治の御代に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず、文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に合■の式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
今日の様子を猫が見ると、ひっくり返るのではなかろうか。ほぼ全員が「婚活」とやら不得要領な言葉を口にしながら悖徳没倫のはなはだしきを演じておる。



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梅崎春生「世代の傷痕」も見る。
《いわば此の大戦で、日本人は日本人がたとえばどんなに背徳不倫のことをやれるかということなどを、観念や可能性の問題ではなく、現実の行動として探り得たわけだ。》
この言葉の、なんと重いことか! しかし、現実の行動として探り得た背徳不倫を「臭いものに蓋をする」的に再び隠蔽しようとするのが今日のリヴィジョナリズムの傷痕であると言えようか。



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色川幸太郎「『悪徳の栄え』事件 上告審判決 裁判官色川幸太郎の反対意見」;
《二、多数意見は、芸術的・思想的な価値のある文書であつても、猥褻性を有する以上、猥褻の文書としての取り扱いを免れることはできないとする。性を素材とする文芸作品は、人間の根源的な欲求である性慾を追求して人間心理の深層にメスをいれ、その奥にひそむ人間性を描かんとするものであるから、姦通、同性愛、強姦、近親相姦等およそ平凡な市民生活とは相容れぬ事象をも題材とせざるを得ないことが多く、もし、筆がそれらの行為の露骨な描写に及ぶにいたつては、その作品に猥褻性が存在することを否定することはできないのであつて、一般的にいえば、多数意見の説示するごとく、芸術的な作品であると同時に猥褻の文書でもありうるわけである。しかし、およそ、世俗への妥協を拒み、神と道徳と法とを無視乃至否定し、現実の世界では許されない悖徳、乱倫の諸相を描いて、人間の真実をたずね、苦渋に満ちた悩みの底から、読者の感動をゆるがす何ものかをくみ出そうとすることこそが、近代文学の手法のひとつの特質ではないかと思われる。もしそうだとすると、露骨な形で性が扱われているというだけの理由でかかる作品が禁圧されるならば、文学の名に値する文芸作品の少なからざるものの抹殺へと途が通ずることになるのである。》
マルキ・ド・サド悪徳の栄え』を翻訳した澁澤龍彦が、刑法175条によって起訴されたのが『悪徳の栄え』事件である。『悪徳の栄え』には性描写が出てくるが、それは芸術か猥褻かと法によって問われたのであった。文学や芸術の場においては、しばしばこの問題が出てくるし、それが法で裁かれるケースも少なくない。しかし、そうした裁判史上で見ても、『悪徳の栄え』事件の影響、反響は大きかった。法学的に言えば、色川幸太郎が反対意見を述べ、その中で所謂「知る権利」を出してきたところが新しかった。ちなみに、私の意見はどうでもよいだろうが、色川氏のそれに最も近いと思う。



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無菌室のごとき言説空間。きれいごとばかりを並べた検閲された言葉やヴァーチャルで空疎なイメージばかりでは、歯ごたえがなく、やがて未来も先細ってしまうだろう。悖徳没倫、背徳不倫、悖徳乱倫……からも目を背けず、きちんと受け止めるという場面が人生のどこかになければ、腑に落ちる生の感覚、迫力は決して得られまい。まあ、必要以上に偽悪ぶるのは私の趣味としないが、しかし必要以上に偽善ぶるのもまた趣味でない。だからと言って、バランスだの中庸だの言うのも趣味でもない。要するに、そういう立場は基本的に反転し得るものだから、私にとっては実際問題どうでもよいものなのだが、それでもあえて悖徳没倫を「知る権利」の保証を求めたいと思うときがある。名無しの猫には悪いがね。