ジュウトオウマツ




 縦 塗 横 抹






乱暴に書き殴ること。気ままに書いたり、消したりすること。
「抹」は「抹消」の「抹」で、塗り消すの意。



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徳富蘆花「思出の記」に用例がある。
《得々の状は乱筆御判読も出来兼ぬる縦塗横抹の書翰紙に溢れ》



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ちなみに「縦塗横抹」は縮めると「塗抹」となる。
夏目漱石草枕」にその例がある。
《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも 鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。》
芸術にとって「塗抹」には何の価値がないことに気づいていたあるピアノの巨匠が「草枕」を愛読した理由もわかるような気がする。



夏目漱石「子規の画」を読むと、漱石があのピアニストと同じ芸術観を共有していたことを確信する。
《東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと云ったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。》



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上村松園日本画と線」にも用例がある。
《その人達に言わせますと、色彩の塗抹は線が持ってくる効果よりも更に深く大きなものだと言うかも知れませんが、私は日本画は線があって初めて色彩を持つもので、色彩を先にすべきものだとは思いません。線の長短や緩急が互いに交錯して、物象の内面外面を現わす妙味は、到底言葉に云い尽せません。私が今の若い人達にお願い致したい事は、もう少しこの線に重きをおいて下すって、日本画の持つ特色を永く伝えるように努力せられるようされたい事でございます。》