ホウトウコウメン




 蓬 頭 垢 面






身だしなみが悪く、むさくるしいさま。
「蓬頭」は調髪せず、よもぎのようにボサボサになった不衛生な頭髪を意味する。「垢面」は文字通り、洗顔しない垢と脂だらけの不潔な顔。読み方は「コウメン」でも「クメン」でもよい。他に「蓬髪垢面」「蓬頭乱髪」「弊衣破帽」「囚首喪面」「蓬頭赤脚」といった四字熟語もある。
よっぽど漫画で書いて説明した方が早わかりだと思うのだが、小生あいにく画才というものを持ち合わせていない。



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魏収『魏書』封軌伝が原典である。
《軌聞笑曰「君子正其衣冠、尊其瞻視、何必蓬頭垢面、然後為賢。」》
魯迅「随感録二十五」(『熱風』)にも用例がある。
《窮人的孩子蓬頭垢面的在街上轉、富人的孩子妖形妖勢嬌聲嬌氣的在家裏轉。》
中国語の方が用例が多い気がする……



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とはいうものの、日本語にも用例がないわけではない。
添田唖蝉坊「乞はない乞食」には次のような描写がある。



《観音さまの周りの雑沓の中を、文字通り蓬頭垢面、ボロを引き摺った男が、何か分らぬことを口の中でモヅモヅ呟きながら、ノロノロと歩き廻ってゐる。
 彼はしゃべってゐる。動いてゐる。と、群集の中から一人が急いで彼の手に白銅を一つ乗せてやる。すると、
後から後から、あはて者が蟇口を開いて、小銭を彼に与へる。彼の掌の上ではいつの間にか銭がたまってゐる。
 さて皆さん、落ついて考へて下さい。かの見苦しい男は、けっして乞ふてはゐないのです。ただひとり言を言って歩いてゐるだけの話です。
 それを見て、おせっかいな人が、もしくは慌て者が、得々として慈善心をほころばせて財布を開ける。と、皆々これに倣ふ、といふ筋書です。これは素敵な台本です。
 この男は、「慈善心を食ふ」ことを知ってゐる利巧な奴です。恐ろしい名優です。》



「蓬頭垢面」と言えば、いわゆる乞食がどうしても想起されてしまうのだろう。



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夏目漱石「津田青楓氏」には、次のような件がある。



《津田君の画には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の芸術的良心に命令された通り動いて行く丈です。だから傍から見ると、自暴に急いでゐるやうにも見えます。又何うなつたつて構ふものかといふ投げ遣りの心持も出て来るのです。悪く云へば智慧の足りない芸術の忠僕のやうなものです。命令が下るか、下らないうちに、もう手を出して相手を遣つ付けてしまつてゐるのです。従つてまともであります。然し訓練が足りません、洗練は無論ありません。ぐしや/\と一気に片付ける丈です。幸な事には此ぢゞむさい蓬頭垢面といつた風の所に、彼の偽はらざる天真の発現が伴つてゐるのです。利害の念だの、野心だの、毀誉褒貶の苦痛だのといふ、一切の塵労俗累が混入してゐないのです。さうして其好所を津田君は自覚してゐるのです。だから他がぢゞむさいと云つて攻撃しても恬として顧みないばかりか、却つてぢゞむさいのが芸術上の一資格であるかの如き断見さへ振り廻したがるのです。》



あまり知られていない漱石の画家評であるため、引用が長くなった。しかし、写していると、紛れもなく『草枕』の作者の評言であるなあと感じる。つまり、漱石の手にかかれば、蓬頭垢面の主は芸術家、より正確に言えばイデア論者となる。ただし、そうした芸術家を手放しに美化するのでなく、チクリとやるところは皮肉というより、漱石ならではのユーモアと解すべきだろう。



小熊秀雄「長髪を愛せよ」も画家を評している。



《校長連の禿頭輩が、私の髪の品評をするのは老いたるものの青春を失つた悲哀の歌であり他人のおせつかいのひまにアイウエオの発音研究をやるか、前額に僅かに余命をとどめる茶褐色数本の髪にチックをつけて愛玩すべしである。さきに来旭した洋画家戸上重雄氏「蓬頭垢面。」長髪は偽芸術家なりと断定し校長連大いに共鳴の声をあげたりとか、「ホテルとフロック」の魔術を知らざる愚を悲しむのみ》



芸術家の風貌が奇態なのは、真偽の判別が難しい。



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吉田松陰が「蓬頭生」とも号していたという事実もついでに挙げおいて、革命家の像立も企てながら今日は筆を擱こう。