ビンシサエン




 鬢 糸 茶 烟






若かりしとき派手に遊び耽っていた男も、年老いては閑寂な生活を送りつつ青春の日々を偲ぶという、そんな心境。ただし「鬢糸茶烟の感」「茶烟鬢糸の感」という風に「の感」を伴うのが通例のため、四字熟語としては掲出されないことが多いようだ。なお「鬢糸」とは老人の薄くなった白髪のことで、老境を表す。「茶烟」は文字通りで、茶を焙じるときに立ち上る煙。



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杜牧「題禅院」が最初の出典である。
《 觥船一棹百分空
  十歳青春不負公
  今日鬢糸禅榻畔
  茶烟軽颺落花風 》



「觥船(コウセン)一棹百分空し 十歳の青春公に負(ソム)かず 今日鬢糸禅榻(ゼントウ)の畔 茶烟軽く颺(アガ)る落花の風」と訓読する。「大きな盃で酒を飲んでも全てが空しい。十年の青春は気ままに過ごした。年をとって髪も白くなった今、座禅を組む椅子のそばで若い頃を回想していると、茶を焙じる煙のように花を散らす風が昇っていく」というほどの意味だ。



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松尾芭蕉は、実に杜牧をよく消化していた。「野ざらし紀行」所載のこんな句から、それが分かる。



  馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり



「残夢」は、杜牧の「早行」という詩から来ている。「茶のけぶり」は諸説があるようだが、私は「題禅院」から来ていると見る。森本哲郎も『中国詩境の旅』で次のように述べている。



《ふつう芭蕉のこの句は廿日あまりの月を馬上から遠く望むと、向うの山の際あたりに朝茶を煮る煙がうっすらと立ちのぼっているのが見えた−−という風に解されている。けれども、すこしく理屈っぽく考えると、月がまだ少し残っている空に立ちのぼる茶の煙が、果して遠くから見えるだろうか。むしろ「茶のけぶり」は芭蕉の心象風景だったのではなかろうか。芭蕉は「杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽ち驚く」と、その句の前に記している。馬に寝て杜牧の詩境を夢みていたという彼の胸中には「早行」のイメージと同時に、茶煙軽く颺る落花の風」というその茶の煙が静かに立ちのぼっていたのかもしれない。》



実景であったのかもしれないが、孕み句でもあったのではあるまいか。西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」などに出てくる歌枕も詠み込んでいるわけだし、当時の古典伝承、享受の様も鑑みるならば、芭蕉流の“引用の織物”であった可能性は、やはり排除できないと思うのだ。



川原澄子もまた「茶のけぶり」に杜牧を見る一人だが(『『茶の本』を味わう』)、そこで杜牧と芭蕉を踏まえた岡倉天心の句を紹介してあり、参考になる。



  茶煙禪榻人の心も月なれや  岡倉天心



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大町桂月「小金井の櫻」にも、杜牧を意識した描写が見える。
《二列の櫻樹の外には、麥畑あり、茶畑あり。雜木林たちつゞき、茅屋點綴す。その間、到る處、よしず張りの茶店を構へ、茶烟輕くる處、小杜の禪榻ならで、赤毛布しける腰掛臺、まばゆきばかりに立ちならび、客を呼ぶ少婦の聲さへなまめきたり。思ひしに違はで、花のさかりは過ぎたれど、そよと吹く風にも、もろく散るさま、なか/\にあはれなり。秩父根おろしの春風、名殘を雜木林にとゞめて、櫻には強く吹かざれど、その雜木林の缺くる處は、風の勢つよく、花片一齊に散亂し、空に知られぬ香雪、紛々として面を撲ち、水に落ちて、水は忽ち錦繍となる。げに花のさかり過ぎならでは、見るを得ざる光景とぞ喜びし。左岸の樹疎らなる處、秩父の連山孱顏をあらはし、右岸には、箱根足柄の山々手に取る如く見えて、その上の、八朶の芙蓉峯、倒まに白扇を懸け、花にひときはの趣を添へぬ。》



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柴田錬三郎『日本男子物語』に「茶烟鬢糸の感」の形で用例がある。



《等々呂木神仙。年齢――七十歳以上であることは、たしかである。いや、もう八十の坂を越えているかも知れぬ。というと、春秋高く、茶烟鬢糸の感を催しむる枯淡の老翁を創造されそうだが、どうして、まるまると肥って、皮膚など青年のようにつやつやしい。対坐すると、どすぐろくひからびた私の顔の方が、はるかに老けている。
 老人は毎朝四時に起きて、相模の野道を五里あまり散歩する。室内にあっては、一年中すっ裸である。
「いまでも、手淫ができるぞ」
 と、豪語している。
 神仙という号とは、およそ、かけはなれた人物である。》



つまり「茶烟鬢糸の感」とは、およそ、かけはなれた人物である。