テッコツテツズイ




 徹 骨 徹 髄






骨身にしみて痛感すること。物事の核心まで達すること。
「骨髄に徹す」という表現の、いわば四字熟語版。



夏目漱石吾輩は猫である』に用例がある。
《ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独り言を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。主人もここまで来たらついでに「おお怖い」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。》



漱石は『草枕』にも有名な用例がある。
《いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。》
私はこれを西洋流にイデア論と言い換えてみたい誘惑に駆られるが、まあ、いわゆる非人情の境地である。



漱石は「徹○徹○」の四字熟語が好きだったようだ。
その証拠に『坊つちやん』には「徹頭徹尾」の用例も見える。
《野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。》
これはある種の文体実験だろう。野だは漢文脈を入れるために存在し、おれはソシュール的ないわゆる能記と所記の問題を代表しつつ、その難解さを落語的に笑いに変換してしまう存在だ。



漱石はそもそも「徹」の字が好きだったのかもしれぬ。
《真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。》
夢十夜」の第一夜からの引用である。
百合の匂いが「骨に徹える」というところが独特で面白い。



漱石は、こんな俳句も残している。



   寒徹骨梅を娶ると夢みけり  漱石