タイセイシッコ




 大 声 疾 呼






大声で激しく叫ぶこと。「疾呼」は、早口で叫ぶの意。
「疾声大呼」「励声一番」「励声疾呼」ともいう。



有島武郎「星座」に用例がある。
《言葉は俺の方が上手だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは漫罵だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を大声疾呼したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が(ガンベが『貴様は』といって力自慢の拳を振り上げた。柿江は本当に恐ろしがって招き猫のような恰好をした)乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……》
声だけ大きくても中身がなければという、いわば空虚なイデオロギーを撃つ批判である。



蘇峰生徳富蘇峰「『空中襲撃に対する国民の凖備』」(『大阪毎日新聞』昭和7年5月22日,ただし引用は神戸大学電子図書館に拠る)という書評の末尾にも用例が見つかった。ちなみに『空中襲撃に対する国民の凖備』(水明書院、昭和7年)という本の著者は、陸軍少将・宇山熊太郎という人のようである。
《以上は著者が如何なる気持ちで、本書を編述したる乎を知る可く引用したるに過ぎない。我等は著者と興に、「防空は軍部ばかりの仕事ではない。国民全部の責任である」を大声疾呼せねばならぬ。》
これは戦前の言説だが、残念ながら今日となってみては、声だけ大きくて実質のない虚しいスローガンに聞こえなくもない。こうした言説の束がある種の全体主義を創り出していったと言えば、さすがに度が過ぎようか。



北村透谷「漫罵」にも用例がある。
《国としての誇負、いづくにかある。人種としての尊大、何くにかある。民としての栄誉、何くにかある。適ま大声疾呼して、国を誇り民を負むものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。彼等の中に一国としての共通の感情あらず。彼等の中に一民としての共有の花園あらず。彼等の中に一人種としての共同の意志あらず。晏逸は彼等の宝なり、遊惰は彼等の糧なり。思想の如き、彼等は今日に於て渇望する所にあらざるなり。》
「漫罵」という語の共通するところから、有島は透谷の影響を受けていたものと推測できる。しかし、そうすると、「星座」の「大声疾呼」に中身がなく空虚というよりは、聴き手の方に欠陥があった可能性も出てくる。また、透谷の孤独な「大声疾呼」は、国民を一体化する蘇峰的な言説とは背馳するだろう。皮肉な見方をすれば、透谷の断片化せざるを得ない近代という時代が逆に全体主義を無意識に要請したということもできるわけだが……。



「励声疾呼」の用例は、谷崎潤一郎「兄弟」にある。
《朝光が父の耳元へ口を寄せて、正気を喚び返すように、励声疾呼した。》
さてはて、今日においてはいったい何が正気で、何が狂気なのか、判然としなくなってきたなどと、聞こえるか聞こえないかの小声、鬼哭啾々たる気配にて歎息を少し漏らしてみる。