チョウシンルコツ




 彫 心 鏤 骨






「彫」は「ほる」、「鏤」は「きざむ」の意。
心に彫りつけ、骨に刻み込むこと。具体的には非常に苦労して何かを成し遂げること、特に詩文などを苦労して彫琢することをいう。
「刻骨銘肌」「刻骨銘心」「彫肝琢腎」「銘肌鏤骨」「銘心鏤骨」ともいう。



上田敏海潮音』の序に用例がある。
《近代の仏詩は高踏派の名篇に於て発展の極に達し、彫心鏤骨の技巧実に燦爛の美を恣にす、》



土井晩翠「新詩發生時代の思ひ出」では、尾崎紅葉に言及するときに「彫心鏤骨」が出てくる。
《紅葉は『七生文章に盡さん』と其後臨終の際に曰つた通り、彫心鏤骨の文章を書いたのは尊い。》
金色夜叉」で有名な尾崎紅葉は、病院長から癌を宣告されると「断腸の記」をものしたが、それはまさに「彫心鏤骨」というよりないものであった。石橋思案が友人を代表して容態の悪い紅葉に文学に対する意見を尋ねると、「「僕は今まで筆を執つて……倒れたんだから文学に対してどうかうと云ふ意見は無い」と言つた」という。三十五歳の若さであった。



三木露風「露風詩話」にも用例が見える。
《表現の精神に於ては、彫心鏤骨するほどの勇気と(即ち科学者の勇気と、)子供心の、いわけなさを、同時に持っていなければならない。》
「赤とんぼ」をはじめ、すぐれた童謡を数多く世に送り出した詩人の言葉である。



種田山頭火「片隅の幸福」にも用例はある。
松尾芭蕉を「彫心鏤骨」とした上で、それとは違う小林一茶の魅力を説いている。
《一茶の作品は極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することが出来まい(勿論、芭蕉ほど彫心鏤骨ではないが)。
 いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。
 私は一茶の句を読むと多少憂鬱になるが、同時にまた、いわば片隅の幸福を感じて、駄作一句を加えたくなった。――
   ひとり住めばあをあをとして草           》



先の露風の言を想起しながらこれを読むと、詩というものの本質は「彫心鏤骨」という極のほかにも、もう一つあるということが分かりかけてくるだろう。



如上はほんの数例でしかないけれども、「彫心鏤骨」という四字熟語を追いかけると、おのずから、すぐれた詩人たちの詩論と出合うことができるようだ。