ラクゲツオクリョウ




 落 月 屋 梁






遠方の親友を想う切なる気持ちを「落月屋梁」の想いという。
「屋梁落月」「空梁月落」とも。



わが国に用例を求めてみると、幕末期の漢詩人・中島棕隠漢詩が見つかった。



《 各天従今抱此琴 (各天今より此の琴を抱き)
  切于屋梁看落月 (切に屋梁に落月を看ん) 》



この詩は大島松洲が藩儒として仙台に起つときに詠まれたものである。



この詩は、杜甫「夢李白」を踏まえている。



《 魂来楓林青 (魂来るとき楓林青く)
  魂返関塞黒 (魂返るとき関塞黒し)
  君今在羅網 (君今羅網に在るに)
  何以有羽翼 (何を以つてか羽翼有るや)
  落月満屋梁 (落月屋梁に満ち)
  猶疑照顔色 (猶ほ疑ふ顔色を照らすかと)
  水深波浪闊 (水深くして波浪闊し)
  無使蛟竜得 (蛟竜をして得しむること無かれ) 》



江南の獄につながれている李白の身を案じ、杜甫李白を夢に見る。落ちかかった月が屋根を遍く照らしているが、それは君の顔を照らしているのではないか……。



杜甫李白と二度、会ったことがある。一度目は夏、洛陽で会い、開封・商邱で遊んだ。二度目は兗州で会った。これが最後となり、以後は李白が江東へ、杜甫長安へ行くことになり、その後は竟に会うことがなかった。
にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、杜甫李白への想いは切である。なるほど、杜甫には「白也詩無敵」という書き出しで始まり「重與細論文」で終わる「春日憶李白」というオマージュも残されている。が、しかし、私の好みから言わせてもらえれば「夢李白」の方により強い迫力を感じる。あくがれ出づる魂の来返。「夢李白」のような詩を眼前にすると、杜甫はやはり長篇詩で力を発揮するタイプなのだなあという思いを改めて強めざるを得ない。
言うまでもないことだが、杜甫の詩も亦、無敵、である。