ケンワンチョクヒツ




 懸 腕 直 筆






書道の書法。筆を垂直に持ち、腕をあげ、肘を脇から離して字を書きなさいという教え。



『古今法書苑』に「懸腕枕腕」という四字熟語がある。書道の書法には大きく二種あるということを表す。「懸腕」が腕を浮かせて肘を下につけない書法、「枕腕」が左手の甲を右手のクッションにする書法である。



しかし、昔から疑問なのだが、美しい字を書くためには「懸腕直筆」でなければならぬのだろうか。「懸腕直筆」は必然なのだろうか。内田百輭「游琴書雅游録」は「筆は勿論、懸腕直筆でなければいけない。」と言うが……。



内藤湖南弘法大師の文藝」には、次にように書いてある。
《誰れでも字を書くには懸腕直筆と云うて、腕を上げて書くと云ふことは古來一定の法でありますが、腕を上げないでも書く人があります。蘇東坡などゝ云ふ人は不精な人であつて、腕を上げないで書いたと云ふことで、あれは間違つて居ると云ふものもあるが、あれだけ書ければ間違つて居つても結構であります。》



なるほど、そうか、蘇東坡であればよいのか! いやいや、しかし、残念なことに私たちは蘇東坡ではない。



「懸腕直筆」にこだわる必要もないとは思うが、脇があいていないと、字がせせこましくなることはあるかもしれない。手首だけで書いてしまうからだろう。字は一画々々、大きく体ごと動かすに如くは無し。



牧野信一「蝉」には、こんな用例もある。
《「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」
 周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。
「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」
 突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――) 周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。》
いつも酔っぱらって「都の西北」と高歌放吟する滝野の帰りを待つ周子の心を表すのが「懸腕直筆」の四字熟語である。ここでは「健腕」となっているが、誤記とはいえ、この場合は「健康」の“健”の方が好ましい気もするから不思議だ。「懸腕直筆」はまっすぐな姿勢の代名詞と言えるだろう。