ムガムチュウ




  無 我 夢 中






一つのことに心を奪われるほど熱中して、我を忘れてしまうことを「無我夢中」という。「無我」というのは、「忘我」と言い換えてもよいだろうが、ルーツを辿ると仏教用後に行き着く。簡単に言えば、我執などの雑念から超越する状態が「無我」である。よく似た四字熟語としては「一心不乱」「無我無心」などがある。



「無我夢中」の用例は、山ほどある。たとえば、芥川龍之介「トロッコ」の良平少年は線路の側を「無我夢中」に走るし、中島敦山月記」の李徴も「無我夢中」で走るうちに四つん這いになり虎と化す。岡本かの子「或る男の恋文書式」の私が「あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で」走れば、横光利一旅愁』の矢代は「無我夢中」で森の中、息を切らして千鶴子を追いかける。宮本百合子によれば「惨めな無我夢中」というのもあるようだ。司馬遼太郎坂の上の雲』言葉を借りれば「やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。」実にさまざまな「無我夢中」があって、興味深い。



《どんな思想をどんな感情を自分自身でもつてゐるのか、自ら何ごとを書かうと試みて居るのか全く無我夢中です。ただ心の底をながるる一種のリズムを捉へて無自覚にそのリズムを追つて居るにすぎない、それ故創作当時における自身は半ば無意識なる自働器械のやうなものにすぎない》



如上は萩原朔太郎の書簡に記された一節である。『月に吠える』の詩人の生理がうかがえることは勿論であるが、この〈自身=自働器械〉という当時としては斬新な表現と「無我夢中」という四字熟語を結びつけたところが興味深い。



「無我夢中」というのは、つまるところ、日常の自我を超越して違う何者かになることであると定義し直してよければ、さまざまな「無我夢中」を収集し、そこから面白い各自の別人格を抽出していけば何か大発見できるのではないかというアイデアもひらめき、おのずから無我夢中になっていく。