ホウタンショウシン


 放 胆 小 心




謝枋得『文章軌範』という書物がある。科挙の受験生のために、韓愈・柳宗元・欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍ら、唐宋の名文六十九編を精選した至れり尽くせりの参考書だ。



一般的にいえば、“放胆”も、“小心”も、人の性格を表す言葉である。“放胆”は大胆で思い切りよい性格、“小心”は怯胆で臆病な性格を表す。謝枋得は、これを文章の分類に応用してみせた。『文章軌範』によれば、文章は「放胆文」と「小心文」に分類できるという。そして初心者のうちは「放胆文」、すなわち細かい文法や規則にとらわれず、思い切って大胆に書くのがよいと説く。他方、玄人の域に達する者には「小心文」を薦めている。熟練者は、細かい字句やルールにも十分な注意を払って文章を練るのがよいというわけだ。この教えを「放胆小心」という。



なるほど、言われてみると、文章の魅力は、達意の文章だけに見られるものではない。下手くそであっても、不思議と印象に残る文章というものは多くある。そして、それは文章に限った話でなく、あらゆることに当てはまるだろう。たとえば、音楽。私はいつもプロフェッショナルの技巧的に隙のない歌や演奏だけを楽しむわけではない。少々の瑕瑾があったとしても、独特で、真情あふるる味のある歌や演奏というものを大事にしたい。



脇道に逸れるが、ここで「金持ち喧嘩せず」という諺を頭の片隅に思い浮かべながら、連想・想像力を逞しく飛翔させることも、この四字熟語を自己の血肉としていく上で参考になるだろうと私は考える。私が自らの貧しい経験に徴して思うことには、不利な立場にある人、貧しい人というものは、リスクをおかしてでも勝負しなければならない。そのような時機がある。悪あがき、悪目立ちすることによって、事態が好転することだってあるかもしれないからだ。どんな行為でも、命がけであれば、心を揺さぶる。ところが、金持ちになってしまえば、むやみに他人に不快な思いをさせてまでリスクをおかす必要もあるまい。ゆとりを持って、そのゆとりを、ただ自己の洗練や他者の救恤のために向けるのがよいだろう。……



このようにつらつら考えてくると、私が最も好かないのは、金持ちの癖に喧嘩するタイプということになりそうだ。これは文章の好みにおいても同様なようで、知識の量が圧倒的であることや技巧的に優れていること等々を鼻にかけたり、あるいは、むやみに読者を挑発したりして、何かと対立し衝突したがるタイプの書き手を見ると、「凄いなあ」と尊敬することがある反面、「幼いなあ」「勿体ないなあ」と不憫に思ってしまうことがある。ただ目立ちたいだけというタイプの文章を読まされると、正直げんなりしてしまうこともないではない。



さらに個人的な解釈へとトランス(脱線?)していくが、たとえば冒頭の書き出し方にも「放胆文」と「小心文」があるのではないか。拙文では、小さな水脈が次第に大きくなっていくが如く、「小心文」から「放胆文」へという流れを半ば確信犯的に採用しているところがあるのだけれども、少なくとも、インパクトが重要な芸術的な文章や、ポレミックな文章では「放胆文」を、逆に、相手に信頼されることを第一義に考える実用的な文章や、論理と情報の正確さが求められる学術的な文章のときには「小心文」を採用するという風に、ジャンルに応じて使い分けをすることが、一つには有効だろうと思う。西洋には「折り合いをつけよ。訴訟は金がかかる。」という言い回しがある。冒頭から喧嘩して、読んでもらえなかったら、悲惨なことになる。プロの文章はあらゆる読者、他者を想定して、冒頭を慎重に始める「小心文」がやはり基本となるだろう。とはいえ、基本はあくまで基本である。玄人であろうが、素人であろうが、あまりに乱暴に過ぎるのも、批判や破綻を恐れて過度に慎重であるのも共に問題で、そこのあたりのバランスが難しい。「放胆文」と「小心文」を自在に使い分ける文章というのが私の理想なのだが、これが非常に難しい。



  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな



たとえば、『みだれ髪』に収録された与謝野晶子の代表歌。女性が女性であることをそのまま肯定するこの画期的な歌は、いわゆる“放胆”な歌の代表のように感ぜられるかもしれないが、実は心にくいまでの小技が効いているということが見逃されがちだ。



初句は字余りである。そこからして既に体制に抗う“放胆”さが見えるが、しかし、自らを「その子」と客観的に眺めるところには繊細で“小心”な一面も垣間見える。また、内容として自らの若い美を誇らかに「うつくしきかな」と謳いあげることは、どこまでも“放胆”きわまりない青春の謳歌という印象をもたらし、思わず目を眩まされそうになるが、「の」の多用によって生み出される流麗な調べに着目すれば、豊かな黒髪という内容とも響きあうように計算されていて、その肌理細かさ、行き届いた配慮に感心させられる。「黒髪」と“黒”を強調するのは、一方では黒髪を大切にした『万葉集』以来の古典世界、女うたの伝統の継承と評されるのだけれど、他方では西洋を意識した明治の日本女性の決起、自立、自信を呼び醒ますといった、近代に固有な側面も孕み持っているだろうと解釈される。



文章においても、生き方においても、私は浅学菲才の未熟者で、どう考えても「金持ち」の側には属していないから、“放胆”と“小心”の均衡を図りかねているところが、多々あるのだけれども、何とかして〈“放胆”にして“小心”、“小心”にして“放胆”〉という融通無碍な独自の境涯を希求し、手探りしていきたいと念じている。



いづれ何の業も小心放胆と相兼候はねばなり申間敷候。」(森鷗外「北条霞亭」)



※上記拙文に関して、ご批正を受けました。ありがたいことです。不十分ながら、大意を変えぬ程度にヴァージョンアップしたことを一言お断りいたします。(作者識)