ワコウドウジン


 和 光 同 塵



老子の提唱した境地である。其の光を和らげ、其の塵を同じゅうす。すなわち、自分の光り輝く才能や知徳を隠して、世俗の塵にまみれ、慎み深く目立たなく暮らせという教えが「和光同塵」である。他の四字熟語で「内清外濁」(ナイセイガイダク)「韜光晦迹」(トウコウカイセキ)「和光混俗」(ワコウコンゾク)「和光垂迹」(ワコウスイジャク)などと言い換えることもできるが、「能ある鷹は爪を隠す」と言うのが一等わかりやすいのではなかろうか。



だが、ここでもう一度、原拠に立ち返ってみよう。すると、老子では四章と五六章で「和光同塵」を説いているということに気づく。この反復は、単に編集能力がなかったという意地悪な見方もできるが、ここでは素直に「特に強調したい教えだった」と受け取っておこう。そこで、五六章の方を、もう少し長めに引用してみたい。



《知る者は言はず、言ふ者は知らず。其の兌(タイ)を塞ぎ、其の門を閉ぢ、其の鋭を挫き、其の粉を解き、其の光を和し、其の塵に同じうす。是を玄同と謂ふ。》



私はここで'unlern'といふ言葉を想起する。G.C.スピヴァックによれば、'unlearn'とは、知識人がサバルタン(下層階級)を語るために、学び知った特権を、自ら「学び捨てる」ということを意味する。「学び捨てる」という訳は、鶴見俊輔の究極の名訳「学びほぐす」に差し替えたほうがよいと考えるが、いずれにしても、これは「和光同塵」という四字熟語の解釈をも刺戟してくれる。



老子は、謙遜を説くのではない。謙遜というのは、一歩間違えれば、傲岸不遜と何も変わらないからだ。建前だけを取り繕った謙遜と、「和光同塵」では、次元が全く異なるのである。そもそも「和光同塵」とは、私が考えるに、「光=塵」の境地である。「光=塵」の境地とは、上昇と下降の自在を意味する。たとえば、芸術を極める過程をイメージしてみよう。初心者のころは、必死に師や先輩に追いつけ追い越せと努力する。この段階では目標は上に設定される。



ところが、芸術を極めたときに落とし穴がある。いわゆる「天狗」(俺様)と化してしまうのだ。自分より劣る者との関係を構築できない孤高の「俺様」は、百害あって一利なし。人間は独りでは自己満足以外に何をすることもできない。そこで、極めたら目標を下に設定しなおす必要が出てくる。山登りに喩えたら、登頂したあとの下山の段階。これがすなわち、'unlearn'だと指させば、現代思想に詳しい人からは笑われそうで怖いのだが、大まかなイメージとしては間違っていないと思う。



一度完成した知は、学びほぐして、はじめて味が出てくる。特権階級の“光”とは、真の“光”ではない。サバルタンという“塵”に見えるもののために、学びほぐされてはじめて、“光”となるのだ。「光=塵」。“光”とは、本当は眩しくないものなのかもしれない。