シュノウハンタイ


 酒 嚢 飯 袋




能無しのくせに、ご飯はよく食べるし、お酒は浴びるように飲む。
世の中にはそんな役立たずもいる。そんな役立たずのことを、四字熟語では「酒嚢飯袋」という。あるいは「酒甕邗嚢」「無芸大食」という四字熟語で言い換えることもできる。

本当を言えば、自ら育て、自ら収穫したものを自らの口に運ぶのが理想であるが、そうでなくとも、自らが汗水たらして稼いできたお金で、酒食を得るというのが人としての道というべきだろう。ところが、これが意外に難しい。


そういえば、父は口すっぱくして言っていたなあ。
「自分で飯が食えるようになって、はじめて一人前だ」と。


今の時代、そう簡単に職にありつけるわけでもないから、この言の圧を強すぎると感じるときもあるだろうが、そうだとしても「自立」「独立」ということの意味の大きさは強調しつづけなければならないものだと、今にして知る。何かに「依存」しているかぎり、いつまで経っても真の自由を手に入れることができない。


母は、ご飯を残すことに対して、非常に口やかましかった。
おかげで、何のとりえもない私だけれど、好き嫌いだけはしないし、ご飯粒は一粒たりとも残さない。両親の厳しい躾(しつけ)には本当に感謝しているし、感謝しなければ罰が当たると大真面目に思っている。


《蒙古人は食量が少いから他國人も少いと思つて居る。餘り食物の少量なのは衞生に害があるやうですけれども、是れは戰爭に當つて非常に蒙古人の利益になることがあります。追撃などの場合には數日間殆ど絶食の有樣で敵を追窮することが出來ます。酒嚢飯袋などいふ無藝大食の者より遙か優つて居ります。》


青空文庫で「酒嚢飯袋」を検索したら、桑原隲藏という人の「元時代の蒙古人」という文章がヒットした。飽食の時代と言われて久しい今日、絶食しても戦えるという気概ある現代人が一体どれくらい居るだろうか。暗澹とせざるを得ない。


長い人生であるから、ときには酒嚢飯袋の時もあるであろうが、長い人生にはハングリーな時代も必要だと思う。


民俗学者柳田国男は、たしか飢えのない時代という前例が過去にはなかったことを説いていたと記憶しているが、古人の夢見てやまなかった飢えのない時代というものが、はたして本当に幸せなのか。いや、厳密には、飢えがないのではない。飢え死にする人がいる発展途上国から夥しい食材を搾取してきて、自らは耕すことすらしない先進国。あるいは、結婚式場の料理の残りやコンビニエンスストアのお弁当の売れ残り、その他なんでもかんでも平気で捨ててしまう日本人。子供の好きなものばかりを与える親たち、偏食ばかりする子供たち。ちなみに私は、野菜全般食べられぬという高校生を見て愕然としたことがある。


私たちが何らかの意味で酒嚢飯袋な罪人であるということを、せめて、もう少しだけでも、肝に銘じておきたいものだ。自戒を込めて記してみました。