センリドウフウ


 千 里 同 風



「万里同風」とも言ってもよいのだが、「非常に遠いところにも同じ風が吹く」ということから派生して、「天下が遍く太平に治まっていること」を意味するようになった。ただし悪い意味で使うこともあって「天下がいたるところで乱れている」というニュアンスのこともある。


私の尊敬する棋士の一人・森内俊之さんは、扇子に「千里同風」と揮毫する。彼はこの言葉の正しい意味を知っているが、それを正確に踏まえつつ、次のように解釈する。「様々な土地で行われる対局において、どんな場合でも、いつもと変わらず、平常心を保つことを心掛ける」という風に。辞書の通りではつまらない。その人の生き様のなかで咀嚼され、彫琢され、鍛え直された四字熟語には、底光りがして、独自の厚みが加わるのだ。


「千里同風」という四字熟語を悪い意味で使うこともあるにはあるが、私はあまり感心しない。頼山陽の年賀状の書き出しはこうであった。「新歳之慶千里同風、目出度申納め候。」やはり「千里同風」は、このように使ってほしいと切望してやまない。


無論、例外はある。次のような使い方ならば、私はむしろ偏愛する。「學者の貧しきは、和漢西洋、千里同風なりとこそ聞けれ、おのれのみつぶやくべきにあらず。」(大槻文彦「ことばのうみのおくがき」)学者の貧は、清貧であるから「千里同風」という語がしっくり来るのだ。


これは連想に過ぎないのだが、良寛和尚の「天上大風」という色紙(複製)が好きで、自室に飾っている。


それから、「千の風になって」という歌に惹かれる。「千里同風」と通底するものがあるからなのかもしれない。死者が千の風になって私たちの和平を守ってくれる。そのような安寧に、私たちは非常に弱いものなのです。