シセキセンリ


 咫 尺 千 里




咫尺」というのは、古代中国の長さの単位。「咫」が女子の指十本分の長さ、「尺」が男子の指十本分の長さを表した。そこから「非常に近い距離」という意味が派生する。「咫尺の地」ならば「非常に狭い土地」、「咫尺の書」ならば「短い手紙」という意味になる。「咫尺を弁ぜず」といえば「近くても暗くて見分けがつかない」という意だ。「咫尺」には「貴人に近づく」という意もある。それに対して「千里」が「非常に遠い距離」のことを指すことは説明せずともよいだろう。


咫尺千里」とは要するに「物事は考えようによっては遠くとも近く、近くとも遠くに感じられる」ということを私たちに教えてくれているのである。恋愛を例に考えてみよう。近くにいても、気持ちが通い合っていなければ、千里の彼方にいるも同じ。そんな経験をしたことがないだろうか? 逆に、遠くにいるのに、すぐそこにいるかのように気持ちが通い合っているということだってある。遠距離恋愛を語るのに「咫尺千里」という四字熟語は欠かせない。それにしても、人間の空間感覚というのは、不思議というか、面白い。


この熟語は『日葡辞書』という辞書にも載っている。『日葡辞書』はポルトガル人が日本に渡来してきたときに作った辞書だから、なかなかに古い言葉ということができよう。宣教師たちも、こんな四字熟語を使って、布教していたのだろうかと想像してみるのは、楽しい。


中国は五代に、李成と范寛という山水画家がいた。彼らの画風は神品であるとして、次のように評されたという。「李成の筆は、近視すれども千里の遠の如く、范寛の筆は、遠望すれども坐外を離れず」(劉道醇『聖朝名画評』)と。画を見たことがなくとも、見てみたくなる、そんな批評だ。水墨画を評するにも「咫尺千里」という四字熟語は欠かせぬらしい。


ちなみに私は


「ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律」


という哲学者・カントの美しい表現に「咫尺千里」という四字熟語の心髄を見る。だが、ここではあえてカントの言葉の解釈は記さないでおこうと思います。下手な解釈によって、近くにあったはずの感動が遠ざかってはいけないから。