リンジュウショウネン


 臨 終 正 念



「臨終正念」という四字熟語は、仏典を読んでおると、枚挙に暇がないほどに、多く出てくる語である。たとえば、「一遍上人語録」には「南無阿弥陀仏と唱へて、わが心のなくなるを臨終正念といふ」との説明が出てくる。要するに、「成仏」ということを意味するのだろう。辞書的に言えば、息を引き取るいまわの際に煩悩を去り、一心に正しく仏を念じ、迷わないことということになる。



梶井久「臨終まで」の中に次のような描写がある。梶井久は、作家・梶井基次郎の母で、「臨終まで」には若い基次郎の最期の様子が綴られている。



《陰うつな暫時が過ぎてゆきました。其処へ弟が汗ばんだ顔で帰って来て「基ちゃん、貰って来たぜ、市営住宅で探し当てた。サアお上り」と言って薬を差出しました。病人は飛び付くようにして水でそれを呑み下しました。然し最早や苦痛は少しも楽に成りません。病人は「如何したら良いんでしょう」と私に相談です。私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くなるだろう」と言いますと、病人は「フーン」と言って暫し瞑目していましたが、やがて「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰臥した胸の上で合掌しました。》



目標を生きることから安らかに死ぬことへ切り替える瞬間というものが、はたしてどのようなものなのかは、体験した者にしか分からないことだと思う。五体満足で、元気に生きていて、しかも家族も健康であるのであれば、死や生といった問題は容易く見過ごすことができるものだ。が、こうした描写を読みながら、基次郎の最期の悟りを追体験することはできるし、それは人としてやはり非常に大切なことではないかと考える。そして、そのような切り替えを促した母親の立派さもまた、まだ生きている人間の胸を打つ。当時は不治であった結核という病と闘った作家・梶井基次郎の文学は、梶井久「臨終まで」の補遺があって、はじめて完成を見る。



「臨終正念」という言葉が通じない今の世の中では、こうした遣り取り自体が不可能である懸念もあるが、平生から「臨終正念」ということについて思索を巡らしておきたいものだと、ときどき思う。