イチゲツサンシュウ




 一 月 三 舟






舟を浮かべて月を見るとき、舟が止まっているときは月も止まって見える。しかし、舟が南に行けば月も南へ行き、逆に舟が北に動けば月も北へ向かう。このように舟の動静によって月の見え方が異なって見えるのと同じく、衆生は仏の教えをさまざまに受け取る。典拠は『華厳経演義鈔』であり、仏教語である。
なお「一月」の読み方は「いちげつ」「いちがつ」。同じものを見るのでも、いろいろな見え方があるという意味では、「一鏡四面」「一水四見」という四字熟語もある。(一つのことでも、さまざまな表現があるということ自体が、「一月三舟」と言えるかもしれない。)



小学生のころ、月を見るのが好きだった。月を追いかけると、どこまでも逃げていくのが、面白くてならなかった。高速道路を走る毎時100キロの車中から眺めても、もっと高速の汽車の車窓から眺めても、月の方が速いのでいつも感心させられた。
しかし、私は気づかなかった。こっちが止まれば、月も止まるということを。老若とは、そういうことなのかもしれない。「一月三舟」という言葉があるから、そういうことも理解できるし、心に沁みる。



  手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る女中茶を持つ猿沢の池



作者未詳の古歌。
「猿沢の池」とは、興福寺の池のことで、手を叩く音の捉え方はさまざまであるという法話に使われる。



「一水四見」という四字熟語も、私の偏愛してやまない仏教語の一つである。
文献に残っているものとしては、盤察編の『温故要略』という随筆が知られる。
《天、水を見れば瑠璃と思ひ、人、水を見れば水と思ひ、鬼、水を見れば火と思ひ、魚、水を見れば室と思ふ》
なお『温故要略』は、富山では、市立図書館の山田孝雄文庫に蔵されている。



若菜邦彦「その宇宙大の詩情」(『北日本新聞』2009年2月28日朝刊)を引く。
《私とあなたが並んで山を見ていると仮定しよう。二人は同じ風景を見ていると思いがちであるが、さにあらず。私とあなたの視力は違うし、背丈によって見る角度も違う。かてて加えて、これまでの経験や知識など諸々の要素が複雑に絡み合って人間は世界と対峙するわけだから、全く同じ山を見ているのではない。
 これを仏教では、生きとし生けるものは各々の業識に応じた世界とともに生まれて来ると説くが、「一水四見」すなわち「人間が水と見ているものを天は瑠璃と見るし、魚は住家、餓鬼は炎と見る」と説明する方が通りがよさそうである。富山の美しさは人間の私よりも鳥や獣や虫の方が知悉しているかもしれない。》
視力や背丈といったところからはじめる若菜さんの説明の仕方が何ともユニークだ。



そういえば、さっき車を運転していたら、道路をすばやく横断する雉を見た。渡り終えた雉は、優雅に美しく立山連峰の方へと飛んで行った。雉には、好天の立山がどのように映るのであろうか。