コウカホウギン




 高 歌 放 吟






あたりかまわず大声で歌い、吟ずること。転じて、周囲を無視して、偉そうな態度をとること。「高歌」とは大声で歌うことでり、「放吟」とは声を張り上げて詩歌などを吟ずることである。「放歌高吟」「放歌高唱」ともいう。「高談闊歩」「高談笑語」ともいう。反対に「浅酌低唱」(浅斟低唱)という言い方もある。



基本的には、歌い手は酔っぱらいで、歌は軍歌・校歌・寮歌と相場が決まっていた。しかし、最近は酔っぱらいもおとなしく、若い者は自分の学校の歌を歌わない。皆、カラオケボックスで流行の歌を個々で歌うのが当世流なのである。銭湯や温泉で、美声を披露に及ぶ人も少なくなった。「高歌放吟」の激減は、よいことなのか、よくないことなのか。即断は慎むべきだろうが、ときおり蛮カラな「高歌放吟」が懐かしくなったり、哀しくなったりすることもないではない。尤も、傍若無人だから、居たら居たで、迷惑千万なのは解っているのだが……。



用例には、陳舜臣『青雲の軸』がある。
《郊外に出て、人家がまばらになると、やがて自然発生的に青春の謳歌がはじまるのだ。高歌放吟。》



他人に配慮した高歌放吟ならば、悪くない。音痴な私は、この気持ちがよく分かる。ただ、そのようなときに誰かに見つかると、妙にきまりが悪いものである。気をつけよう。



「高歌放吟」は本当に絶滅したのか、と先から記憶を辿っていたが、思い出した。野球の応援歌だけは、いまだに「高歌放吟」のよき(あしき?)伝統が残っている!






  今どきの高歌放吟夜の秋  辻田克巳



『焦螟』(平14)所収。最近はめっきり減った「高歌放吟」。静かに更けゆく秋の夜に、装いを新たに聞えてくる歌があるというのである。中七に「高歌放吟」という四字熟語を出すのが思い切った趣向なのだが、初五で「今どきの」という修飾語を置くのもいい。若者が最新のポップスでも歌っていたのであろうか。こうしたとき、短気にカッとなる人が多い今日日、秋の夜に突如活気の点ったその一瞬を慈しむその心の余裕に、感銘を受ける。歌は世に連れ人に連れだが、歌を歌いたくなる人の心というものは、そう簡単には変わらない。辻田克巳氏は秋元不死男、山口誓子の両氏に師事した俳人で、受賞歴も多い。